人格の同一性について

人格の同一性ってなんだろう。

ふと気になり、ネットサーフィンで記事を読んでみて、自分の思う人格の同一性について書き出してみました。



まず、物理学的に広範に認められた以下の仮定を置く。

(i)時間は不連続である(不連続性定理)。イメージとして、時間はパラパラ漫画(24fpsのテレビ映像と言ったほうがいい?)のように流れていく。



(ii)時間tと少し後の時間の世界に相関はあるが、確率論的に決定される(量子力学)。

以下、意識の話に移る。

なお、議論が煩雑になるため相対性理論の時間のズレを無視し古典論的な絶対時間を用いているが、本質的でない事を後に述べる。

まず、以下のように<同一><私>を定義してみる。

(iii)意識(クオリア、主観)はある時刻ごとに1個1個カウントする。

平たくいうと、「今の貴方」「昔の貴方」「未来の貴方」「今のA君」「昔のA君」「未来のA君」は全て別意識とカウントする。

このため、時間t1秒~t2秒までで意識がn個存在する場合、n×(t2-t1)/⊿t個の意識が存在する。

(iv)<同一>の定義は、①ある時刻の②ある意識から観測した場合に同一のものとしてグルーピングした”グループ(集合)”とする。

例えば、同窓会で会ったA君がすっかり変わっていて同一人物と認識できないのなら、「今の貴方」にとって目の前の「今のA君」は「昔遊んだA君」と同一ではない。

一方、双子のBちゃん、Cちゃんの見分けが昔からつかないなら、「今の貴方」にとって「今のBちゃん」=「今のCちゃん」であり、「過去のBちゃん」=「過去のCちゃん」である。

つまり、①時刻ごと、②観測者ごとに「同一」のグルーピングが異なる。上の例だと”今のA君”、”昔遊んだA君”、”BちゃんかCちゃん”のようにグルーピングされる。

以後、ダブルクオーテーション””で囲んだものを”グループ”と定義する。

次に、<私>を定義してみよう。

(v)①ある時刻t秒の②ある意識にとって、①同じ時刻t秒におけるグループ<私>はただ1つである。

(今回の議論に不要と思われるので括弧をつけるが、(vi)いかなる時刻であろうと、ある人の意識は<私>以外の意識(グルーピング「他者」)を観測できない。)

例えば、これを読んでいる貴方が、過去の自分とサヨナラしたのだったら、「今の貴方」にとって「過去の<私>」と「今の<私>」は同一ではない。

更にいうなら、数年後に(過去の自分も自分なのだ…)と受け入れたのなら、「数年後の貴方」にとって「過去の<私>」と「今の「私」」は同一である。

無論、これらは言葉の綾で実際には<私>は生まれてから今まで同じだと主張するなら、時刻「貴方の誕生日」~時刻「今」まで生きてきた貴方全てが、「今の貴方」にとって<私>である。

 (iv)に関連して、先程の双子のBちゃんCちゃん視点で見てみよう。

BちゃんはどこまでCちゃんと似ていようと、自分とCちゃんが別の意識であることを認識できる。

Cちゃん視点でもBちゃんと自分は別の意識であることを認識できる。

一方、先程の貴方は目の前にいるのがBちゃんかCちゃんかの見分けがつかない。

仮に、貴方がBちゃんと友達だがCちゃんを知らないままCちゃんと会った場合、「今の貴方」は目の前のCちゃんを"Bちゃん"にグルーピングしうる。

ところがBちゃんとCちゃんが互いの存在を知らない生き別れの双子だろうが、ほくろの位置までそっくりだろうが、Cちゃんと初対面の「今のBちゃん」は目の前の存在「今のCちゃん」を<私>とは認識しない。

グルーピング"よく似た人"に入るだけだろう。これが<私>と「他者」の決定的な違いである。

果たしてこれで何が言えるのか。話の都合上、いくつか例をあげてみる。

例えばテセウスの船を見てみよう。

「テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。

このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。」

 この例では、船以外の他者から見た同一性の議論はそれぞれの他者のグルーピング手法にのみ依存する。

ちなみに、廃棄部品から作ったテセウス2号とどちらが本物かという発展問題が存在する。

ここで、船に意識があるとしよう。

ある時刻において入れ替えられていく船自身の意識から見た時、自身は本物だと言うだろう。

しかしテセウス2号も自身は本物だと言うだろう。この問題を解決するため、(iv)②ある意識から観測した同一性という概念を導入した。

すなわち、テセウス(1号とでも呼ぶ)にとっての<私>(”本物のテセウス”)と、テセウス2号にとっての<私>(”本物のテセウス”)の指すものの名称は同じだが、異なる意識のグルーピングが異なるだけだという問題に帰結する。

(”本物のテセウス” for 1号、”本物のテセウス” for 2号、”本物のテセウス” for アリストテレス…が別途存在する。)

また、ある人間XとYの脳細胞を徐々に入れ替えていくことを考える。

脳細胞が全て入れ替われば、XとYは完全に入れ替わるが、50%ずつ入れ替わった場合の同一性はどうなるのかが気になる。

他者から見た場合は砂山のパラドックス同様、グルーピングの問題であろう。

一方、入れ替わっている間にXの意識はどちらにあるのか。これについても、ある時刻t秒に30%Yと入れ替わったとすると、①t秒における②30%Yと入れ替わったときのXと、①t秒における②30%Xと入れ替わったYという2つの意識があるに過ぎない。

時間的に連続したXの意識なるものが元来存在すると考えるからパラドックスに見えるだけである。(iii)意識はある時刻ごとに1個1個カウントし、それらを時々刻々と意識ごとにグルーピングすると考えれば、元々Xだった方はその時々で自分の意識がある方の身体を<私>と判断する。

Yも同様である。

ここまでだと問題を細分化して場合分けしただけのように見える。

<私>の同一性は時々刻々と変化するが、そのグルーピング方法について言及していない。

ここで、今まで無視してきた(ii)時間tと少し後の時間の世界に相関はあるが、確率論的に決定されるという仮定を使いたい。

すなわち、現在の自身と相関の高い過去の自身を選び取ることで同一性を確保していると考える。

さて、この文脈で スワンプマンを見てみよう。

「ある男がハイキングに出かける。

その道中、この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。

その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。

スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。

もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える[3]。

沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。

そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。

そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。」

相関性という意味で、スワンプマン自身は過去の自分を<私>としてグルーピングするだろう。

そして、周りの人間にとっても死んだ男として認識されるだろう。

しかし、未来のスワンプマンも他人も、自分が生まれた経緯を知った時に偽物だと判断しうる。

ただ、スワンプマンは記憶という主観的な繋がりにより、現在の自分と過去の偽物との相関が強いだけであろう。ベイジアン風に言う「事後確率(主観確率)」と同義である。

まとめると、私にとっての同一性の解釈は、量子力学、相対性理論、そしてベイズ主義を組み合わせたものである。

例えるなら、監視カメラの映像から同一人物を認定し◯をつけるAIの方式に近い。

◯の付け方は過去の映像からの相関性で判断する。

監視カメラの映像は本質的にはパラパラ漫画である。

また、監視カメラが壊れ新たな型番となっても、その位置が同じであるなら"同一の"監視カメラであると考えるのが自然という立ち位置。

(ただし、複数の監視カメラ映像(主観)を利用した判断はできないが...)

 なお、相対性理論(ミンコフスキー空間)における主観同士の時間のズレを考慮していないが、相対性理論を考慮した場合でもある主観(私であっても良い)から観測される他者は一意に定まるため、主観的同一性の議論対し何ら支障はない。

話を簡単にするため、ニュートン力学的な絶対時間(いわゆる日常的な時間間隔)を用いて記載した。



※「砂山のパラドックス」:砂の山があったとき、そこから数粒の砂を取り去っても砂山のままだが、そうやって粒を取り去っていったとき、最終的に一粒だけ残った状態でも「砂山」と言えるか、という問題。別名、「ハゲ頭のパラドックス」。

「髪の毛が一本もない人はハゲである」(前提1)

「ハゲの人に髪の毛を一本足してもハゲである」(前提2)

ここで前提1に前提2を繰り返し適用していく(つまりツルッパゲの人に髪の毛を一本ずつ足していく)。そして次の結論を得る。

「よって全ての人はハゲである」(結論)

こっちのほうが好き。

あとがき

 メンヘラは人格の同一性が薄いと言おうとして、人格の同一性の定義を調べたら非常に難解であったのでほんの少し勉強してみました。

 哲学的議論について初めて書いてみるので、いい加減な表現はお許しください。ただ、疑問点、議論(特に反論)があればコメントで。

ではまた。

コロナ自粛について率直に思うこと

今月25日を目処に緊急事態宣言が解除されるそうだ。

そこでコロナに関しての率直な気持ちを、
今日はあえて前置きからグダグダと書いてみる。

普段の私の文章から削り取られた言葉の残滓をあえてすくい上げたいからだ。

私が文量が多い文章を書くときには、骨格を決めて気ままに肉付けをしたあとに推敲するパターンが多い。

推敲のときに熱い気持ちを込めて書かれた文たちは、つい削ってしまう。

一時の感情で言動や文章が乱れることを心の奥底で良しとしていないためだ。

少しメタ的だが、このような前書きを書いたり、本題を中々言わない文章は美しくないと思ってしまうほど、学術的、プレゼン的な文章に職業柄毒されたのだろう。

ただ、余計なものを削り取り磨き上げた私の文章は、淡々とした印象を人に与えるようだ。(実際は仕事のドキュメントと比べるとクオリティは低いのだが…)

この思考の掃き溜めはもっと自由気ままな気持ちを表現する場としたいから、批判覚悟で駄文も書き残すことにしたい。

そして、普段私が表に出すことを良しとしない感情を少し吐き出すことにしよう。

ご存知の通り、世間ではコロナウィルスが流行っているようだ。

これがまた良いパラメータ調整の効いたウィルスなので、エイズよりも少し高い感染力、若者を中心に2週間ほどゾンビ化させる、他の病気と併発すると死にやすいらしい。

本か何かで読んだが、ウィルスというのは不思議なもので、宿主が死ぬとウィルスが乗り移るべき細胞も、外部への感染力もほぼなくなる。

生かさず殺さず、かといって無害だと我々が恐れる必要がない。
そういう意味でコロナウィルスのバランス調整はかなり神がかっている。

とはいえ、強ウィルス(?)が出てきて社会を脅かすのは神の摂理ではなく自然の摂理だろう。

弱ウィルス(?)は撲滅されるか害が少なく無視されるかで、自然淘汰され目に見えないのだから。生物、特に遺伝とかが好きなので、素人ながらつい語りたくなってしまう。

ところで、世間では東日本大震災以上にコロナウィルスのことで持ちきりだ。

局所性の高い震災ではなく、全国民が感染リスクをもつからだろう。

私の身の回りの情報源でも、ニュース、会社、SNS、駅や飲食店などの告知など、生活全てがコロナに汚染されている。

私はTwitterをよく見るが、ほぼ皆ウィルスを恐れ、ウィルスを恐れる人を叩き、政府を叩き、外国に憧れor貶し、仕事や趣味へのウィルスによる影響を話し続けている。

特に人や会社、政府、外国などを叩く言動を皆繰り返し、政治好きやマイノリティ好きの方々と同様の言動をするように変質している。

「最近錦織調子悪いね~」のノリで「帰省する人はどうかしてるよね~」「経済が死んだらどうにもならないよね~」という雑談が垂れ流されている。

実は私はこういう雑談は苦手だ。

こういうと、恋愛アドバイスなどでよく書かれている「日常会話は"雑談"であり、結論を出そうとする"議論"ではない」と言われるかもしれない。

まがりなりにも私は理数系の出身であり、アイビーリーガーの端くれなので、「"雑談"ができないのでは?」との心配はごもっともではあるが、特段雑談が苦手なわけではない。

私が苦手な"雑談"は、「科学的、学術的な白黒がつく話題」だ。

「議論」ならできるが、ふわっとした話を延々とする気にはなれない。

かといってマジレスすると場の空気がおかしくなる。

これまではあまり深入りせず、笑いながら流してきたが、全ての情報源から入ってくるとなると話は別だ。

だから、コロナ関連の話題はツイッターでミュートをかけた。

これがリーマンショックのような経済危機などであるなら、私自身そこまで過敏にならないのかもしれない。

ところが、"目に見えない"ウィルスの、感染"リスク"ときた。

封じ込めに失敗、感染源の特定、被害の緩和、・・・。放射線の被ばくリスク評価との共通項があまりにも多すぎるため、研究者として評価し、データを見てある程度自分なりの結論が出せる。

さて、研究でリスク評価をして帰った後に見る日常は何か。

不安を煽るマスコミのソースや個人の発言をもとに、種々のバイアスに惑わされながら近視眼的に発言している。

想像してみて欲しい。

仲の良いご老人が機械の使い方を試行錯誤してるときには助言するだろう。

だが、話す人全てが毎日試行錯誤していたらどう思うか...

既に気付いているかもしれないが、素直な気持ちは貴方達の心に刺さるから言えないのだ。

「マスコミはアジテートをやめろ、愚民は釣られるな、多少の感情は自己処理しろ、分を弁えろ、・・・」あまりにも傲慢で、人の気持ちを無視しているとも思う。

これは自己を律するための言葉であった。

間違っても口から出すべき言葉ではないとは思う。

だが、この特にオチの無い記事をあえて見にくる方々には気持ちを吐き出しても良いかなと思った。

最近はネコも杓子もコロナに取り憑かれて言動が乱れ、正直辟易している。

関わる全ての人間を啓蒙する気など起きるはずもない。

雑談くらいは楽しくしたい。これを呟く私もまた、同じ穴のコロナ疲れなのだろうか...

ネットとリアルの文化について

「日本はハイコンテクスト文化」など、文系の講義やお堅い社会人研修ではよく耳にする。

簡単に説明すると、「昨日のアレ、どんな感じ?」のような、相手と自分が共通の前提や背景を持っていると考える文化だ。

対して「ローコンテクスト文化」は、「昨日のラーメン屋で話した、3/10の浅草旅行でレンタカーを予約するって話だけど、無事予約できた?」のように、曖昧さがほぼないやりとりをする文化である。

ちなみにアスペ的コミュニケーションは後者であり、何かと話題になっている。

 とはいえ、これらのコミュニケーション方式は話者の人間性だけでなく、状況によっても変換する。

例えば外国人と話すとき、仮に相手の日本語が達者だとしても、どのような話題を選ぶか悩むだろう。

「何しに来ているのか?いつ日本に来たのか?」そのようなテンプレ会話の後には、互いの未知なバックグラウンドに踏み込んでいかなければならない。

普段友達と話す時よりも説明や気づかいが増え、苦労するのではないだろうか。

(メタ的なことを言うと、上の例で話者が日本語話者の日本人で、友達も日本人であることを暗黙のうちに仮定してしまっている。
ハイコンテクスト文化に浸かっていると、自分がハイコンテクスト的な話し方であることに気づきづらいという良い例だと個人的に思う。)

さて、本題に入ろう。

ネットでの付き合いはベースとしてローコンテクストであると言えよう。

なぜならネットを使う人間の共通項など、ネットを使うことと人間であること※1以外にほぼ見いだせないのだから。

では、ネットではコンテクストは存在しないのか?

結論、そうではない。

コンテクストを与える媒体は、用いているSNSの種類や、作り出されたコミュニティである。

例を出すと、Twitterでは文字数が140文字と少なく、画像やアンケート機能が使える媒体であることを使う人間は恐らく知っている。

また、5ch(旧2ch)の「スレッド」や、Twitterやインスタなどの「ハッシュタグ」では、共通の話題に対して皆が投稿する。

しかし多くのコミュニティは、例えば「アイドルの○○が好き」だけの情報(共通項)しかなく、相手の年齢、正確、学歴、職業、ともすると性別すら怪しい。

特に日本の場合、実名を出したら終わりという文化が根強い特性上、これらの情報は闇の中である事が多い。

ではどのようにコミュニケーションを取るのか?

いつまでも一つの趣味の話しかできないのか?

これは媒体に依存するだろう。

例えば5chのような掲示板であれば、コテハンを除き基本的に1日ごとに変わるIDのみで個人は紐付けられ、犯罪に関わらない限り匿名性は非常に高い。

掲示板ではある話題に関する”スレッド”が立ち、皆その話題について話すことをある種強要される。

何故なら、話題と外れることを話す人間はスレッド違い(スレチ)と呼ばれ、ともすると荒らし認定される。

そこでのコミュニケーションはスレッドの話題やカテゴリ関しては究極的にハイコンテクストであり、自分の体験などを話す場合には究極的な無情報、ローコンテクストである。

一方SNS※2では、個人が意図的に作成した投稿やプロフィールによって、個人が規定される。

精神科医の斎藤 環氏はこのように作り上げられた自己を自著[1]で「キャラクター」と呼んでいる。

いわゆる「ネット上でのキャラ」のことである。

ネット上のキャラとリアルのキャラが異なるという題材を上げれば枚挙にいとまがないが、重要な点が一つある。

リアルでは簡単に変えられない年齢、性格、学歴、職業、性別に至るまでを自由に再設定できる点だ。

言い換えれば、極端にリアルの自分が持つ属性を排除して話す事ができる。

このような環境の下で他人とコミュニケーションを取る場合、コンテクストは「お互いのもつ、相手に見せたい、あるいは自分がなりたいキャラクター」となる。

これは人と人の組み合わせの数だけコンテクストがあることになるだろうが、お互いの内面に基づいたハイコンテクストな会話が実現できる可能性を秘めている。

人によるだろうが、単に学校が同じ、席が近いだけの人よりも話しやすい人がネット上にいるのではなかろうか。

 無論、ネット上の付き合いにも難点はある。リアルとの比較でそれが明るみに出ると考えるので、リアルとの違いを書き連ねてみる。

・リアルとの違い

 リアルは出会った場所や置かれた環境という共通項がある。

場所によっては年齢や学歴が”ほぼ”一致している事が前提となる。

例えば、入試による学校の棲み分け。高学歴を例に取ると、それなりに勉強しており、教養が豊かであろうという自然な背景が存在する。

ともするとこの状況に甘え、相手と自分が同じような環境で育ったという前提で会話し、異なる存在は自分の周りの少数派だから排除するような輩も存在する。

これは一見するとコミュ力が高いが、その実置かれた環境に過度に依存したコミュニケーション力である。

このようなコミュニケーション方法しか知らない場合、引っ越し後の近所付き合いやネット付き合いで苦労するかもしれない。(最も、切り捨てても生きていける場合もあるのだろうが。)

 この例に見るように、リアルにおけるコンテクストの多くは学校や地域などであり、自分が所属する団体や生まれ育った土地などに依存する”ローカルなもの”である。

前述した通りこれらは自分では変え難い事が多く、「学歴分化」「富の再生産」といった問題とも密接に絡む。

しかし、ネット上でもこれらの価値はある程度存在するものの、通用しない場面も多々ある。

”リアルに依存”している人々にとっては、ネット上でのコミュニケーションとはFacebookのようなリアルの延長であるか、もしくは極めてローコンテクストなものとなるであろう。

 少し話は変わるが、このコンテクストという観点で、「ネットは逃げ場」という主張を検討してみる。

確かに、「ネット上でのキャラ」を用いてのコミュニケーションは、リアルでの環境や境遇を都合の良いように排除できるため、リアル基準で考えると逃げ場でしかないだろう。

しかし、生まれた場所、育った環境のような自分ではどうしようもないものに縛られやすいリアルよりも、自分でネットを始め、自分で合うSNSを探し、自分から居場所を掴み取るネットの方が、自己の意思に基づく分だけ崇高であると、私は常日頃思っている。

※1 正確に言うと、人工無脳どころか人工知能が発達した今、実は相手が人間なのかbotなのかすら怪しい。
このあたりの話題は既にネットを題材としたアニメなどで散々話し尽くされていると思うので、深くは書かないこととする。

※2 なお、この文脈でのSNSはLineやDiscordのようなチャットや通話主体ではなく、Twitterやインスタグラムのような個人アカウントが投稿する形態と考えてほしい。
Facebookは非常に特殊で、リアルの設定がSNSに引き継がれるため、新たなネット上のキャラは作成されない。
Facebookの特異性と日本での微妙な立ち位置については今後別記事に記載予定。(ローコンテクスト的な注釈を入れてみる)

[1] 斎藤 環, “キャラクター精神分析”, 2014

東京の男、京都の女〜最適解をめぐって〜

「東男と京女」という言葉がある。

意味は「東男に京女とは、男は粋でたくましい江戸っ子がよく、女はしとやかで女らしい京都の女がよいということ。」

誰しも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。
 
実際問題このご時世にこんなことを口走るとボロクソに叩かれそうなものだが、そういうルッキズムやらの話はまた別の機会に回すとして、今回はこの言葉の捉え方を切り口にして語りたい。

 さて、「東男と京女」が真実だとしよう。

ざっくり言うと関東男>関西男、関東女<関西女を仮定しよう。あなたが男性だとして、関西男と関東男どちらになりたいだろうか?
 
当然、この前提条件を見る限りは関東男と言いたいだろう。しかしよく考えてみよう。

関西に住んでいると良い女と巡り合える機会が増えるのである。
これも踏まえてあなたはどちらを選択したいと思うだろうか?(女性でわかりづらいなら関東と関西、男と女を読み替えてね)

 関東男を選択するなら、周囲の環境よりも自信のスペックを優先したということ。

関西男を選択したならその逆。

人によっては関西女とはインターネットでつながればいいじゃんみたいな回答もあるだろう。

そして推測でしか無いが、裏を返せば選んだ選択肢は今の自分に欠けているものを表しているということは無いだろうか?
この切り口から自分の欲しいものを考えてみる手法、悪くないと個人的には思った。


 似たような選択肢として「井の中の蛙⇔大海」、「鶏口⇔牛後」がある。

就職で「牛後」を選んだ自分だが、「鶏口」のささやかな幸せに憧れる。

そして自分の無力さで失敗したときに、大海に飛び出すことをたまに後悔する。

就職後の人生設計としては、「牛後」で身につけたキャリアとスキルで「鶏口」のささやかな幸せを享受する、そんなものを思い浮かべていた時期もあった。

「牛後」のメリット、特に人(恋愛対象となる女性含む)からの承認欲求を上手く享受できてない今、最良の選択肢はなんなのか、
再考しようと思い始めている。

科学的であること、論理的であること

世の中には水素水なるものが流行っているそうだ。

その前は放射能除去、事故前はコラーゲン、その前はマイナスイオン発生機など、エセ科学は常に流行り続けている。世の知識人…というほどでもなく、少し斜に構えたネットの民や、
多少は学がある人達はこぞってこれらを批判し、これらの信者を馬鹿にしているのが今の世の中だ。

 確かに、これらは馬鹿にされるような代物かもしれない。
コラーゲン以外は、高校の科学で批判できるものばかりだ。
つまり、いわゆる”科学的”ではないということだ。

しかし、騙している側はともかく騙されている側はそこまで批判されるべきなのだろうか?
もしコラーゲンがアニフィル酸などと言う名前に変わった時に、我々は同様にその嘘を見抜けるのだろうか?
科学が専門化しすぎている中で、科学的かどうかなど専門家にしか見抜けない以上、どうしても自分の科学力では見抜けない事柄も出てくるのではないだろうか?

 個人的には、騙されているというだけでは馬鹿にしようとは思わない。

ただ、騙す側も騙し続けられるわけではない。

何故ならそれには本当の効用がないからだ。

当然、いつか矛盾や綻びが出てくるだろう。
それに対して盲目的に信じるならば、本当の意味で馬鹿だと思う。それは、“論理的”ではなく、考えることを放棄しているからだ。

では、この“論理的”と“科学的”とは何が違うのだろうか?

簡単に言うと、その論理に矛盾がある。

つまり○○という事実の「肯定」と「否定」が同時に存在するなら、“論理的”ではないし、また科学は“論理的”であるので科学的でもない。

しかし、例えば「聖書は必ず正しい」という教えに従って生きる人間は、「聖書」という論理体系に矛盾せず生きる限り、“論理的”ではあるが、“科学的”ではない。
「聖書」を矛盾なく解釈できていればという前提はつくが。

 思うに、“科学的”である必要など無いのではなかろうか。

観光先でマイナスイオンを信じてプラシーボ効果を得る人のほうが、頭でっかちな人よりもその場に限っての効用は高いし、合理的なのだ。

そもそも、最も科学的でありそうな科学者でさえ、これまでの科学的知見に対して新規性のある発見をする必要があり、
その意味では最も“科学的”ではないのだ。

しかし、彼らは積み上げてきた“科学”というエビデンスを無視せず、それらを“論理的”に処理することが求められる。

 では、論理的でないとは具体的にどういうことなのか?

まず、論理的でないとされる例としては大体次の2パターンに収束すると個人的には思う。
1. AならばBである(AとBは何も関係ない)
例:今日雨が降りそうだから明日傘買おう!
2. Aかつnot Aである
例:とあるコピペ
感情を失った中学生だが異端か?w
1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2016/09/28(水) 18:52:30.261 id:iq4udx4Q0.net
何も感じなくなって悲しい

また、論理的でないとは言えないが、論理的に考えれば何も言及していないパターンも散見される。“論理的に意味をなさない”パターンとでも呼ぼうか。
3. AはAである。
例:やるときはやるんだって!

これらに対しては議論も何も始まらない。

酔っぱらいの戯言と同レベルに無意味であるからだ。
そして、エセ科学はそもそもが破綻した論理であるため、3のように結局は何も謳わずごまかし続けるか、1か2のような論理的破綻を言葉巧みにごまかす事が必要になる。

これに騙され続けるということは、酔っぱらいの戯言を真に受ける程度しか物を考えていないという事にならないだろうか?

勿論、苦しい人なら深く考えられずにすがるという理屈はわかる。
だが、それは結局のところ酔っ払いと同じく正常ではない状態だという事だ。


 …一通り説明した所で、個人的な思いについて少し。

科学的でないなら多少いじられる程度だろうし、別にそれで対応を変えようとは思わない。
しかし、論理的でない事を言い続けるなら、相槌を適当に打つだけになるだろう。

なぜなら、それしか術がないのだから。

めんどくさいは悪いことなのか

論理性のかけらもない話なので気軽に読んでね☆


"めんどくさい"という感情は、感情による行動へのブレーキという側面を持っているのではなかろうか。

例えば、今日出かけるのめんどいなぁと思うとき。外に出るのは疲れるのを学習していて、体調を鑑みたため、感情としてブレーキを発しているのが根本的原因ではないだろうか。

勿論、感情による判断は万能ではないので、めんどくさいと思っても出かけてみて良かったと思うことも有るだろうが、多少の欠陥はあれどもこの感情のアルゴリズムの思想としてはそうなっているのだと思われる。

恐らくめんどくさいというのは欲求の逆ベクトルの感情であり、その意味では恐れや嫌悪感のような、一見強い拒否のようでいて本質的には欲求が含まれている感情とは異なる種類のものであろう。

例えば、走る電車に対して(ホームに落ちたらどうしよう)と感じる恐怖は、ある一種の興味や期待のような感情を無理やり押さえ込んでいる状態であり、その興味や期待自体は抑えられているだけで消えないが、
落ちることを想像するのがめんどくさいと感じた時、それらの感情はいつしか消滅するということである。この点においてこの感情は欲求を減少させる唯一の感情、すなわちブレーキと言えるのでは無いだろうか。
好きの反対は無関心、という良く聞く話である。ここらへんの話は心理学の本の引用かもしれないので適当に探して読んで、どうぞ。

とにかく、めんどくさいと感じる事こそが欲求の最大の抑止力であるという前提で話を進める。

例えば、冬に寒いから外に出たくないと言うのは、寒さで体力を消耗することを感情がブレーキをかけている。
色々と考えたりやらなければいけないことがめんどくさいのは、エネルギーの無駄な消費を抑えるためのブレーキである。
さて、自分の体を守るため以外でめんどくさい事は一体何故ブレーキがかかるのだろうか。

例えば恋愛や人間関係。例えば机の上にあるちょっと判子押すだけの書類。

これらは前述した身を守るという目的とはあまり関係ないように見える。一体何故感情側にこのようなブレーキがついているのか。

一つの考えとしては、心を守るためである。
ほったらかしの書類に注意を払うことは、忘れていた何かを思い出すことに繋がっており、その中には考えるだけで精神に多大なダメージを与えるものが含まれているかもしれない。
TSUTAYAのレンタルビデオとか。
人間関係がめんどくさいのは心を守るため。非常にわかりやすい。

一つだけ怖い話を。

俺がめんどくさいと思っていることは目下英語。これは単純に精神的に悪影響を及ぼすから。でも他にパチンコとか風俗とか、彼女を作ることとか、普段やろうと思わないことで多少興味がある物でもめんどくさいの一言で一蹴している。

これは一度知ってしまうと今までの自分の経験、考えなどが全て壊れる可能性に対して、感情がブレーキをかけてるのでは無いだろうか。
あるいは人が楽しそうにやっていることを自分が楽しめないために起こる絶望感から守るためではないだろうか。 これが杞憂であればいいと思っている。

最後に一言。

めんどくさいは悪じゃないと思っています。無理にその感情を押し殺すことこそ悪なのだと、そう思います。

ボランティアが大嫌いです。

自分はボランティアが嫌いだ。だが面倒だ、いい人に見られたくない、偽善っぽい等のよくある理由ではなく、かなり生理的なレベルで嫌いだ。

今まで嫌いな理由は高校の頃のトラウマが根本原因だと思っていたが、改めて考えてみるとある程度は論理的に説明がついてしまう事に気がついたので、少し書いてみようと思う。


ボランティアが嫌いな主な理由は、"明示的な見返りなき赤の他人への奉仕"、それを踏まえたボランティアの"構造の歪み"という所か。他にも細かい部分で嫌いな点もあるが、運用面や個々の団体の問題なので今は触れないでおこう。

さて、前者は見て分かる通りボランティアの定義そのものである。誤解のないように言葉の説明を先に行おう。

"明示的"とは、金や目に見える対価、という意味で使った。"明示的"でない"見返り"の例としてまず挙げられる物は、例えば人からの感謝の気持ちで幸せになる事、堅い言い方だと承認欲求を満たす行為とでも言うべきか、要するに心情的な対価を受け取っている事だろう。他には就活に有利、人との繋がり(異性との出会い含む)等副次的な利益も考えられる。

"赤の他人"は同じ共同体に属さない人の意、つまり友達、恋人、家族、同僚の深い繋がりから学校、近所の人等の浅い繋がりすらなく、同じ市に住んでいる人や電車で乗り合わせた人程度、あるいはもっと離れて日本、世界のどこかの人という感じか。現在も将来的にも全くの偶然でない限り一生関わらない人とも言える。

"奉仕"は実際にボランティアをするときの仕事、と言えるか。募金の呼びかけ、川の掃除のようなものがイメージしやすいか。

"明示的でない見返り"を今はないと仮定すると、"見返りなき赤の他人への奉仕"と言うことになる。これは人間が意図的には行う事ができないと思う。例えば勉強嫌いの子が勉強をするときの事を考えよう。

勉強をするとしたら、それは何らかのエサに釣られてか、将来を見据えてか、なんとなくイヤイヤやっているか、宿題等(半)強制的にやらされているる時位ではないだろうか。
前2つは小さな、あるいは大きな目的のためであり、自分の意志とはいえ利益があるからやるのである。
となると広義において"やりたいからやっている"のではないか?当たり前の事だが、自分の意思でやる場合には何らかの利益が得られるからやるのである。
であるから、強制的にやらされるか何も考えずなんとなくやっているかの2択が残る。前者はあまり好きな人はいないだろう。後者は賛否が分かれるだろうが、自分は嫌いである。
少し長くなったがこの理由を説明しよう。


そもそも赤の他人への奉仕の利害構造を見ると、自分の労働力により他者が特をしている事になる。
これは競争原理的には他者とのWIN-WINの関係を築けるなら有効であるが、"赤の他人"であるためそれは恐らく見込めない。
となるとこの行為を"何も考えずに"やっているというのはアホが労働力(募金の場合は資本)を搾取されてるだけではないかと。ここまで説明すると嫌いな理由というのもわかるだろう。
このアホを騙して他人が得する構造そのものが嫌いなのだ。

では、"明示的でない見返り"が発生する場合はどうだろう。

ここまでの結論だと、ボランティアがここまで広まった主な理由はこれだと思う。
これを認めると嫌う必要がなくなると思われるだろうが、少し詳しく見てみよう。

利害構造としては、"労働力・資本"を差し出す代わりに"笑顔等の感謝の気持ち、就活等を有利に進める経験、自己の成長、出会い・コミュニケーション"等を受け取っている事になる。
うん、よく偽善とか言って非難されるアレですね。うまく相手に利益を与えられないと"自己満足"にもなりえるという事がわかるだろう。
ではこれの何がいけないのか、自分はどこが嫌いなのか。

まず、これをお互い意識して行われているのならそれは問題もなく、ともすれば自分でボランティアを始めるかもしれない。
家で勉強するか、外で自己成長するか、その二択なら自分なら迷って後者にしてもおかしくはない。
ただ、これを表に出した途端「ボランティアに見返りを求めるな」だの(気持ち悪い)だのと言われる事はほぼ間違いない。

そして赤の他人だけでなく、ボランティアを受ける側からも苦言を呈される事は数多くある。
冷静にボランティアを考えると何か利益が必要であるのに、皆"真の無償の奉仕"、つまりアホから搾取される事を望むというわけだ。
一体誰が好き好んでそんなことをやるのかと問いただしたい。だから如何に自分の利益を隠して奉仕するかに尽くす必要が出てくる。
これが"構造の歪み"の一つである。

もう一つは千羽鶴問題に見られる歪みである。
千羽鶴問題とは、被災地に千羽鶴を送りつけて復興を願うも、送られた側はゴミが増えるため非常に迷惑する問題である。
他にもノコノコ被災地に行ってボランティアしようとするも自分の生活すらままならず足手まといになっていたりする。

何故このような事が起きるのかというと想像力の欠如と言われがちだが、一番の理由は"自己満足"や"承認"等利益を求めていわゆる"ボランティア"をするという構造そのものにある。差し出すものと受け取るものが不均衡なのだ。

砂漠の商人に砂を渡しても一銭も受け取れない。

だからと言って、バイトして金を送ればいいという効率重視の解決策を提示しても「それは違う」との外野のツッコミや、"承認欲求"自体を求める人には受け入れられない。

それならやめてしまえと言いたくなるが、政府の事業や商売ならともかく"ボランティア"は止められない。本当に歪んでいるし、これを良い物だと無条件に賛美する人には今一度考えなおして欲しいとも思っている。

あと一つ、ボランティアの構造そのものにも欠陥があると思っている。
日本では良い事の代名詞のようになっているボランティアだが、外国では必ずしもそうではないようだ。
商売人からの批判は「我々の仕事を奪うな!」、ボランティアを受ける側からの意見としては、「金取ってないのだから最後まで責任取れないじゃないか!」だそうだ。

これ以上書くと日本人批判になりそうなのでやめておくが、一つだけ言いたいのは"金を貰い、払わないと責任を誰も取らないし、取れない"ということだ。


ここまで書いてみたけどやっぱり出会い系ボランティアしたいです...リア充め...