めんどくさいは悪いことなのか

論理性のかけらもない話なので気軽に読んでね☆


"めんどくさい"という感情は、感情による行動へのブレーキという側面を持っているのではなかろうか。

例えば、今日出かけるのめんどいなぁと思うとき。外に出るのは疲れるのを学習していて、体調を鑑みたため、感情としてブレーキを発しているのが根本的原因ではないだろうか。

勿論、感情による判断は万能ではないので、めんどくさいと思っても出かけてみて良かったと思うことも有るだろうが、多少の欠陥はあれどもこの感情のアルゴリズムの思想としてはそうなっているのだと思われる。

恐らくめんどくさいというのは欲求の逆ベクトルの感情であり、その意味では恐れや嫌悪感のような、一見強い拒否のようでいて本質的には欲求が含まれている感情とは異なる種類のものであろう。

例えば、走る電車に対して(ホームに落ちたらどうしよう)と感じる恐怖は、ある一種の興味や期待のような感情を無理やり押さえ込んでいる状態であり、その興味や期待自体は抑えられているだけで消えないが、
落ちることを想像するのがめんどくさいと感じた時、それらの感情はいつしか消滅するということである。この点においてこの感情は欲求を減少させる唯一の感情、すなわちブレーキと言えるのでは無いだろうか。
好きの反対は無関心、という良く聞く話である。ここらへんの話は心理学の本の引用かもしれないので適当に探して読んで、どうぞ。

とにかく、めんどくさいと感じる事こそが欲求の最大の抑止力であるという前提で話を進める。

例えば、冬に寒いから外に出たくないと言うのは、寒さで体力を消耗することを感情がブレーキをかけている。
色々と考えたりやらなければいけないことがめんどくさいのは、エネルギーの無駄な消費を抑えるためのブレーキである。
さて、自分の体を守るため以外でめんどくさい事は一体何故ブレーキがかかるのだろうか。

例えば恋愛や人間関係。例えば机の上にあるちょっと判子押すだけの書類。

これらは前述した身を守るという目的とはあまり関係ないように見える。一体何故感情側にこのようなブレーキがついているのか。

一つの考えとしては、心を守るためである。
ほったらかしの書類に注意を払うことは、忘れていた何かを思い出すことに繋がっており、その中には考えるだけで精神に多大なダメージを与えるものが含まれているかもしれない。
TSUTAYAのレンタルビデオとか。
人間関係がめんどくさいのは心を守るため。非常にわかりやすい。

一つだけ怖い話を。

俺がめんどくさいと思っていることは目下英語。これは単純に精神的に悪影響を及ぼすから。でも他にパチンコとか風俗とか、彼女を作ることとか、普段やろうと思わないことで多少興味がある物でもめんどくさいの一言で一蹴している。

これは一度知ってしまうと今までの自分の経験、考えなどが全て壊れる可能性に対して、感情がブレーキをかけてるのでは無いだろうか。
あるいは人が楽しそうにやっていることを自分が楽しめないために起こる絶望感から守るためではないだろうか。 これが杞憂であればいいと思っている。

最後に一言。

めんどくさいは悪じゃないと思っています。無理にその感情を押し殺すことこそ悪なのだと、そう思います。