科学的であること、論理的であること
世の中には水素水なるものが流行っているそうだ。
その前は放射能除去、事故前はコラーゲン、その前はマイナスイオン発生機など、エセ科学は常に流行り続けている。世の知識人…というほどでもなく、少し斜に構えたネットの民や、
多少は学がある人達はこぞってこれらを批判し、これらの信者を馬鹿にしているのが今の世の中だ。
確かに、これらは馬鹿にされるような代物かもしれない。
コラーゲン以外は、高校の科学で批判できるものばかりだ。
つまり、いわゆる”科学的”ではないということだ。
しかし、騙している側はともかく騙されている側はそこまで批判されるべきなのだろうか?
もしコラーゲンがアニフィル酸などと言う名前に変わった時に、我々は同様にその嘘を見抜けるのだろうか?
科学が専門化しすぎている中で、科学的かどうかなど専門家にしか見抜けない以上、どうしても自分の科学力では見抜けない事柄も出てくるのではないだろうか?
個人的には、騙されているというだけでは馬鹿にしようとは思わない。
ただ、騙す側も騙し続けられるわけではない。
何故ならそれには本当の効用がないからだ。
当然、いつか矛盾や綻びが出てくるだろう。
それに対して盲目的に信じるならば、本当の意味で馬鹿だと思う。それは、“論理的”ではなく、考えることを放棄しているからだ。
では、この“論理的”と“科学的”とは何が違うのだろうか?
簡単に言うと、その論理に矛盾がある。
つまり○○という事実の「肯定」と「否定」が同時に存在するなら、“論理的”ではないし、また科学は“論理的”であるので科学的でもない。
しかし、例えば「聖書は必ず正しい」という教えに従って生きる人間は、「聖書」という論理体系に矛盾せず生きる限り、“論理的”ではあるが、“科学的”ではない。
「聖書」を矛盾なく解釈できていればという前提はつくが。
思うに、“科学的”である必要など無いのではなかろうか。
観光先でマイナスイオンを信じてプラシーボ効果を得る人のほうが、頭でっかちな人よりもその場に限っての効用は高いし、合理的なのだ。
そもそも、最も科学的でありそうな科学者でさえ、これまでの科学的知見に対して新規性のある発見をする必要があり、
その意味では最も“科学的”ではないのだ。
しかし、彼らは積み上げてきた“科学”というエビデンスを無視せず、それらを“論理的”に処理することが求められる。
では、論理的でないとは具体的にどういうことなのか?
まず、論理的でないとされる例としては大体次の2パターンに収束すると個人的には思う。
1. AならばBである(AとBは何も関係ない)
例:今日雨が降りそうだから明日傘買おう!
2. Aかつnot Aである
例:とあるコピペ
感情を失った中学生だが異端か?w
1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2016/09/28(水) 18:52:30.261 id:iq4udx4Q0.net
何も感じなくなって悲しい
また、論理的でないとは言えないが、論理的に考えれば何も言及していないパターンも散見される。“論理的に意味をなさない”パターンとでも呼ぼうか。
3. AはAである。
例:やるときはやるんだって!
これらに対しては議論も何も始まらない。
酔っぱらいの戯言と同レベルに無意味であるからだ。
そして、エセ科学はそもそもが破綻した論理であるため、3のように結局は何も謳わずごまかし続けるか、1か2のような論理的破綻を言葉巧みにごまかす事が必要になる。
これに騙され続けるということは、酔っぱらいの戯言を真に受ける程度しか物を考えていないという事にならないだろうか?
勿論、苦しい人なら深く考えられずにすがるという理屈はわかる。
だが、それは結局のところ酔っ払いと同じく正常ではない状態だという事だ。
…一通り説明した所で、個人的な思いについて少し。
科学的でないなら多少いじられる程度だろうし、別にそれで対応を変えようとは思わない。
しかし、論理的でない事を言い続けるなら、相槌を適当に打つだけになるだろう。
なぜなら、それしか術がないのだから。