ボランティアが大嫌いです。

自分はボランティアが嫌いだ。だが面倒だ、いい人に見られたくない、偽善っぽい等のよくある理由ではなく、かなり生理的なレベルで嫌いだ。

今まで嫌いな理由は高校の頃のトラウマが根本原因だと思っていたが、改めて考えてみるとある程度は論理的に説明がついてしまう事に気がついたので、少し書いてみようと思う。


ボランティアが嫌いな主な理由は、"明示的な見返りなき赤の他人への奉仕"、それを踏まえたボランティアの"構造の歪み"という所か。他にも細かい部分で嫌いな点もあるが、運用面や個々の団体の問題なので今は触れないでおこう。

さて、前者は見て分かる通りボランティアの定義そのものである。誤解のないように言葉の説明を先に行おう。

"明示的"とは、金や目に見える対価、という意味で使った。"明示的"でない"見返り"の例としてまず挙げられる物は、例えば人からの感謝の気持ちで幸せになる事、堅い言い方だと承認欲求を満たす行為とでも言うべきか、要するに心情的な対価を受け取っている事だろう。他には就活に有利、人との繋がり(異性との出会い含む)等副次的な利益も考えられる。

"赤の他人"は同じ共同体に属さない人の意、つまり友達、恋人、家族、同僚の深い繋がりから学校、近所の人等の浅い繋がりすらなく、同じ市に住んでいる人や電車で乗り合わせた人程度、あるいはもっと離れて日本、世界のどこかの人という感じか。現在も将来的にも全くの偶然でない限り一生関わらない人とも言える。

"奉仕"は実際にボランティアをするときの仕事、と言えるか。募金の呼びかけ、川の掃除のようなものがイメージしやすいか。

"明示的でない見返り"を今はないと仮定すると、"見返りなき赤の他人への奉仕"と言うことになる。これは人間が意図的には行う事ができないと思う。例えば勉強嫌いの子が勉強をするときの事を考えよう。

勉強をするとしたら、それは何らかのエサに釣られてか、将来を見据えてか、なんとなくイヤイヤやっているか、宿題等(半)強制的にやらされているる時位ではないだろうか。
前2つは小さな、あるいは大きな目的のためであり、自分の意志とはいえ利益があるからやるのである。
となると広義において"やりたいからやっている"のではないか?当たり前の事だが、自分の意思でやる場合には何らかの利益が得られるからやるのである。
であるから、強制的にやらされるか何も考えずなんとなくやっているかの2択が残る。前者はあまり好きな人はいないだろう。後者は賛否が分かれるだろうが、自分は嫌いである。
少し長くなったがこの理由を説明しよう。


そもそも赤の他人への奉仕の利害構造を見ると、自分の労働力により他者が特をしている事になる。
これは競争原理的には他者とのWIN-WINの関係を築けるなら有効であるが、"赤の他人"であるためそれは恐らく見込めない。
となるとこの行為を"何も考えずに"やっているというのはアホが労働力(募金の場合は資本)を搾取されてるだけではないかと。ここまで説明すると嫌いな理由というのもわかるだろう。
このアホを騙して他人が得する構造そのものが嫌いなのだ。

では、"明示的でない見返り"が発生する場合はどうだろう。

ここまでの結論だと、ボランティアがここまで広まった主な理由はこれだと思う。
これを認めると嫌う必要がなくなると思われるだろうが、少し詳しく見てみよう。

利害構造としては、"労働力・資本"を差し出す代わりに"笑顔等の感謝の気持ち、就活等を有利に進める経験、自己の成長、出会い・コミュニケーション"等を受け取っている事になる。
うん、よく偽善とか言って非難されるアレですね。うまく相手に利益を与えられないと"自己満足"にもなりえるという事がわかるだろう。
ではこれの何がいけないのか、自分はどこが嫌いなのか。

まず、これをお互い意識して行われているのならそれは問題もなく、ともすれば自分でボランティアを始めるかもしれない。
家で勉強するか、外で自己成長するか、その二択なら自分なら迷って後者にしてもおかしくはない。
ただ、これを表に出した途端「ボランティアに見返りを求めるな」だの(気持ち悪い)だのと言われる事はほぼ間違いない。

そして赤の他人だけでなく、ボランティアを受ける側からも苦言を呈される事は数多くある。
冷静にボランティアを考えると何か利益が必要であるのに、皆"真の無償の奉仕"、つまりアホから搾取される事を望むというわけだ。
一体誰が好き好んでそんなことをやるのかと問いただしたい。だから如何に自分の利益を隠して奉仕するかに尽くす必要が出てくる。
これが"構造の歪み"の一つである。

もう一つは千羽鶴問題に見られる歪みである。
千羽鶴問題とは、被災地に千羽鶴を送りつけて復興を願うも、送られた側はゴミが増えるため非常に迷惑する問題である。
他にもノコノコ被災地に行ってボランティアしようとするも自分の生活すらままならず足手まといになっていたりする。

何故このような事が起きるのかというと想像力の欠如と言われがちだが、一番の理由は"自己満足"や"承認"等利益を求めていわゆる"ボランティア"をするという構造そのものにある。差し出すものと受け取るものが不均衡なのだ。

砂漠の商人に砂を渡しても一銭も受け取れない。

だからと言って、バイトして金を送ればいいという効率重視の解決策を提示しても「それは違う」との外野のツッコミや、"承認欲求"自体を求める人には受け入れられない。

それならやめてしまえと言いたくなるが、政府の事業や商売ならともかく"ボランティア"は止められない。本当に歪んでいるし、これを良い物だと無条件に賛美する人には今一度考えなおして欲しいとも思っている。

あと一つ、ボランティアの構造そのものにも欠陥があると思っている。
日本では良い事の代名詞のようになっているボランティアだが、外国では必ずしもそうではないようだ。
商売人からの批判は「我々の仕事を奪うな!」、ボランティアを受ける側からの意見としては、「金取ってないのだから最後まで責任取れないじゃないか!」だそうだ。

これ以上書くと日本人批判になりそうなのでやめておくが、一つだけ言いたいのは"金を貰い、払わないと責任を誰も取らないし、取れない"ということだ。


ここまで書いてみたけどやっぱり出会い系ボランティアしたいです...リア充め...