人格の同一性について

人格の同一性ってなんだろう。

ふと気になり、ネットサーフィンで記事を読んでみて、自分の思う人格の同一性について書き出してみました。



まず、物理学的に広範に認められた以下の仮定を置く。

(i)時間は不連続である(不連続性定理)。イメージとして、時間はパラパラ漫画(24fpsのテレビ映像と言ったほうがいい?)のように流れていく。



(ii)時間tと少し後の時間の世界に相関はあるが、確率論的に決定される(量子力学)。

以下、意識の話に移る。

なお、議論が煩雑になるため相対性理論の時間のズレを無視し古典論的な絶対時間を用いているが、本質的でない事を後に述べる。

まず、以下のように<同一><私>を定義してみる。

(iii)意識(クオリア、主観)はある時刻ごとに1個1個カウントする。

平たくいうと、「今の貴方」「昔の貴方」「未来の貴方」「今のA君」「昔のA君」「未来のA君」は全て別意識とカウントする。

このため、時間t1秒~t2秒までで意識がn個存在する場合、n×(t2-t1)/⊿t個の意識が存在する。

(iv)<同一>の定義は、①ある時刻の②ある意識から観測した場合に同一のものとしてグルーピングした”グループ(集合)”とする。

例えば、同窓会で会ったA君がすっかり変わっていて同一人物と認識できないのなら、「今の貴方」にとって目の前の「今のA君」は「昔遊んだA君」と同一ではない。

一方、双子のBちゃん、Cちゃんの見分けが昔からつかないなら、「今の貴方」にとって「今のBちゃん」=「今のCちゃん」であり、「過去のBちゃん」=「過去のCちゃん」である。

つまり、①時刻ごと、②観測者ごとに「同一」のグルーピングが異なる。上の例だと”今のA君”、”昔遊んだA君”、”BちゃんかCちゃん”のようにグルーピングされる。

以後、ダブルクオーテーション””で囲んだものを”グループ”と定義する。

次に、<私>を定義してみよう。

(v)①ある時刻t秒の②ある意識にとって、①同じ時刻t秒におけるグループ<私>はただ1つである。

(今回の議論に不要と思われるので括弧をつけるが、(vi)いかなる時刻であろうと、ある人の意識は<私>以外の意識(グルーピング「他者」)を観測できない。)

例えば、これを読んでいる貴方が、過去の自分とサヨナラしたのだったら、「今の貴方」にとって「過去の<私>」と「今の<私>」は同一ではない。

更にいうなら、数年後に(過去の自分も自分なのだ…)と受け入れたのなら、「数年後の貴方」にとって「過去の<私>」と「今の「私」」は同一である。

無論、これらは言葉の綾で実際には<私>は生まれてから今まで同じだと主張するなら、時刻「貴方の誕生日」~時刻「今」まで生きてきた貴方全てが、「今の貴方」にとって<私>である。

 (iv)に関連して、先程の双子のBちゃんCちゃん視点で見てみよう。

BちゃんはどこまでCちゃんと似ていようと、自分とCちゃんが別の意識であることを認識できる。

Cちゃん視点でもBちゃんと自分は別の意識であることを認識できる。

一方、先程の貴方は目の前にいるのがBちゃんかCちゃんかの見分けがつかない。

仮に、貴方がBちゃんと友達だがCちゃんを知らないままCちゃんと会った場合、「今の貴方」は目の前のCちゃんを"Bちゃん"にグルーピングしうる。

ところがBちゃんとCちゃんが互いの存在を知らない生き別れの双子だろうが、ほくろの位置までそっくりだろうが、Cちゃんと初対面の「今のBちゃん」は目の前の存在「今のCちゃん」を<私>とは認識しない。

グルーピング"よく似た人"に入るだけだろう。これが<私>と「他者」の決定的な違いである。

果たしてこれで何が言えるのか。話の都合上、いくつか例をあげてみる。

例えばテセウスの船を見てみよう。

「テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。

このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。」

 この例では、船以外の他者から見た同一性の議論はそれぞれの他者のグルーピング手法にのみ依存する。

ちなみに、廃棄部品から作ったテセウス2号とどちらが本物かという発展問題が存在する。

ここで、船に意識があるとしよう。

ある時刻において入れ替えられていく船自身の意識から見た時、自身は本物だと言うだろう。

しかしテセウス2号も自身は本物だと言うだろう。この問題を解決するため、(iv)②ある意識から観測した同一性という概念を導入した。

すなわち、テセウス(1号とでも呼ぶ)にとっての<私>(”本物のテセウス”)と、テセウス2号にとっての<私>(”本物のテセウス”)の指すものの名称は同じだが、異なる意識のグルーピングが異なるだけだという問題に帰結する。

(”本物のテセウス” for 1号、”本物のテセウス” for 2号、”本物のテセウス” for アリストテレス…が別途存在する。)

また、ある人間XとYの脳細胞を徐々に入れ替えていくことを考える。

脳細胞が全て入れ替われば、XとYは完全に入れ替わるが、50%ずつ入れ替わった場合の同一性はどうなるのかが気になる。

他者から見た場合は砂山のパラドックス同様、グルーピングの問題であろう。

一方、入れ替わっている間にXの意識はどちらにあるのか。これについても、ある時刻t秒に30%Yと入れ替わったとすると、①t秒における②30%Yと入れ替わったときのXと、①t秒における②30%Xと入れ替わったYという2つの意識があるに過ぎない。

時間的に連続したXの意識なるものが元来存在すると考えるからパラドックスに見えるだけである。(iii)意識はある時刻ごとに1個1個カウントし、それらを時々刻々と意識ごとにグルーピングすると考えれば、元々Xだった方はその時々で自分の意識がある方の身体を<私>と判断する。

Yも同様である。

ここまでだと問題を細分化して場合分けしただけのように見える。

<私>の同一性は時々刻々と変化するが、そのグルーピング方法について言及していない。

ここで、今まで無視してきた(ii)時間tと少し後の時間の世界に相関はあるが、確率論的に決定されるという仮定を使いたい。

すなわち、現在の自身と相関の高い過去の自身を選び取ることで同一性を確保していると考える。

さて、この文脈で スワンプマンを見てみよう。

「ある男がハイキングに出かける。

その道中、この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。

その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。

スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。

もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える[3]。

沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。

そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。

そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。」

相関性という意味で、スワンプマン自身は過去の自分を<私>としてグルーピングするだろう。

そして、周りの人間にとっても死んだ男として認識されるだろう。

しかし、未来のスワンプマンも他人も、自分が生まれた経緯を知った時に偽物だと判断しうる。

ただ、スワンプマンは記憶という主観的な繋がりにより、現在の自分と過去の偽物との相関が強いだけであろう。ベイジアン風に言う「事後確率(主観確率)」と同義である。

まとめると、私にとっての同一性の解釈は、量子力学、相対性理論、そしてベイズ主義を組み合わせたものである。

例えるなら、監視カメラの映像から同一人物を認定し◯をつけるAIの方式に近い。

◯の付け方は過去の映像からの相関性で判断する。

監視カメラの映像は本質的にはパラパラ漫画である。

また、監視カメラが壊れ新たな型番となっても、その位置が同じであるなら"同一の"監視カメラであると考えるのが自然という立ち位置。

(ただし、複数の監視カメラ映像(主観)を利用した判断はできないが...)

 なお、相対性理論(ミンコフスキー空間)における主観同士の時間のズレを考慮していないが、相対性理論を考慮した場合でもある主観(私であっても良い)から観測される他者は一意に定まるため、主観的同一性の議論対し何ら支障はない。

話を簡単にするため、ニュートン力学的な絶対時間(いわゆる日常的な時間間隔)を用いて記載した。



※「砂山のパラドックス」:砂の山があったとき、そこから数粒の砂を取り去っても砂山のままだが、そうやって粒を取り去っていったとき、最終的に一粒だけ残った状態でも「砂山」と言えるか、という問題。別名、「ハゲ頭のパラドックス」。

「髪の毛が一本もない人はハゲである」(前提1)

「ハゲの人に髪の毛を一本足してもハゲである」(前提2)

ここで前提1に前提2を繰り返し適用していく(つまりツルッパゲの人に髪の毛を一本ずつ足していく)。そして次の結論を得る。

「よって全ての人はハゲである」(結論)

こっちのほうが好き。

あとがき

 メンヘラは人格の同一性が薄いと言おうとして、人格の同一性の定義を調べたら非常に難解であったのでほんの少し勉強してみました。

 哲学的議論について初めて書いてみるので、いい加減な表現はお許しください。ただ、疑問点、議論(特に反論)があればコメントで。

ではまた。