ネットとリアルの文化について
「日本はハイコンテクスト文化」など、文系の講義やお堅い社会人研修ではよく耳にする。
簡単に説明すると、「昨日のアレ、どんな感じ?」のような、相手と自分が共通の前提や背景を持っていると考える文化だ。
対して「ローコンテクスト文化」は、「昨日のラーメン屋で話した、3/10の浅草旅行でレンタカーを予約するって話だけど、無事予約できた?」のように、曖昧さがほぼないやりとりをする文化である。
ちなみにアスペ的コミュニケーションは後者であり、何かと話題になっている。
とはいえ、これらのコミュニケーション方式は話者の人間性だけでなく、状況によっても変換する。
例えば外国人と話すとき、仮に相手の日本語が達者だとしても、どのような話題を選ぶか悩むだろう。
「何しに来ているのか?いつ日本に来たのか?」そのようなテンプレ会話の後には、互いの未知なバックグラウンドに踏み込んでいかなければならない。
普段友達と話す時よりも説明や気づかいが増え、苦労するのではないだろうか。
(メタ的なことを言うと、上の例で話者が日本語話者の日本人で、友達も日本人であることを暗黙のうちに仮定してしまっている。
ハイコンテクスト文化に浸かっていると、自分がハイコンテクスト的な話し方であることに気づきづらいという良い例だと個人的に思う。)
さて、本題に入ろう。
ネットでの付き合いはベースとしてローコンテクストであると言えよう。
なぜならネットを使う人間の共通項など、ネットを使うことと人間であること※1以外にほぼ見いだせないのだから。
では、ネットではコンテクストは存在しないのか?
結論、そうではない。
コンテクストを与える媒体は、用いているSNSの種類や、作り出されたコミュニティである。
例を出すと、Twitterでは文字数が140文字と少なく、画像やアンケート機能が使える媒体であることを使う人間は恐らく知っている。
また、5ch(旧2ch)の「スレッド」や、Twitterやインスタなどの「ハッシュタグ」では、共通の話題に対して皆が投稿する。
しかし多くのコミュニティは、例えば「アイドルの○○が好き」だけの情報(共通項)しかなく、相手の年齢、正確、学歴、職業、ともすると性別すら怪しい。
特に日本の場合、実名を出したら終わりという文化が根強い特性上、これらの情報は闇の中である事が多い。
ではどのようにコミュニケーションを取るのか?
いつまでも一つの趣味の話しかできないのか?
これは媒体に依存するだろう。
例えば5chのような掲示板であれば、コテハンを除き基本的に1日ごとに変わるIDのみで個人は紐付けられ、犯罪に関わらない限り匿名性は非常に高い。
掲示板ではある話題に関する”スレッド”が立ち、皆その話題について話すことをある種強要される。
何故なら、話題と外れることを話す人間はスレッド違い(スレチ)と呼ばれ、ともすると荒らし認定される。
そこでのコミュニケーションはスレッドの話題やカテゴリ関しては究極的にハイコンテクストであり、自分の体験などを話す場合には究極的な無情報、ローコンテクストである。
一方SNS※2では、個人が意図的に作成した投稿やプロフィールによって、個人が規定される。
精神科医の斎藤 環氏はこのように作り上げられた自己を自著[1]で「キャラクター」と呼んでいる。
いわゆる「ネット上でのキャラ」のことである。
ネット上のキャラとリアルのキャラが異なるという題材を上げれば枚挙にいとまがないが、重要な点が一つある。
リアルでは簡単に変えられない年齢、性格、学歴、職業、性別に至るまでを自由に再設定できる点だ。
言い換えれば、極端にリアルの自分が持つ属性を排除して話す事ができる。
このような環境の下で他人とコミュニケーションを取る場合、コンテクストは「お互いのもつ、相手に見せたい、あるいは自分がなりたいキャラクター」となる。
これは人と人の組み合わせの数だけコンテクストがあることになるだろうが、お互いの内面に基づいたハイコンテクストな会話が実現できる可能性を秘めている。
人によるだろうが、単に学校が同じ、席が近いだけの人よりも話しやすい人がネット上にいるのではなかろうか。
無論、ネット上の付き合いにも難点はある。リアルとの比較でそれが明るみに出ると考えるので、リアルとの違いを書き連ねてみる。
・リアルとの違い
リアルは出会った場所や置かれた環境という共通項がある。
場所によっては年齢や学歴が”ほぼ”一致している事が前提となる。
例えば、入試による学校の棲み分け。高学歴を例に取ると、それなりに勉強しており、教養が豊かであろうという自然な背景が存在する。
ともするとこの状況に甘え、相手と自分が同じような環境で育ったという前提で会話し、異なる存在は自分の周りの少数派だから排除するような輩も存在する。
これは一見するとコミュ力が高いが、その実置かれた環境に過度に依存したコミュニケーション力である。
このようなコミュニケーション方法しか知らない場合、引っ越し後の近所付き合いやネット付き合いで苦労するかもしれない。(最も、切り捨てても生きていける場合もあるのだろうが。)
この例に見るように、リアルにおけるコンテクストの多くは学校や地域などであり、自分が所属する団体や生まれ育った土地などに依存する”ローカルなもの”である。
前述した通りこれらは自分では変え難い事が多く、「学歴分化」「富の再生産」といった問題とも密接に絡む。
しかし、ネット上でもこれらの価値はある程度存在するものの、通用しない場面も多々ある。
”リアルに依存”している人々にとっては、ネット上でのコミュニケーションとはFacebookのようなリアルの延長であるか、もしくは極めてローコンテクストなものとなるであろう。
少し話は変わるが、このコンテクストという観点で、「ネットは逃げ場」という主張を検討してみる。
確かに、「ネット上でのキャラ」を用いてのコミュニケーションは、リアルでの環境や境遇を都合の良いように排除できるため、リアル基準で考えると逃げ場でしかないだろう。
しかし、生まれた場所、育った環境のような自分ではどうしようもないものに縛られやすいリアルよりも、自分でネットを始め、自分で合うSNSを探し、自分から居場所を掴み取るネットの方が、自己の意思に基づく分だけ崇高であると、私は常日頃思っている。
※1 正確に言うと、人工無脳どころか人工知能が発達した今、実は相手が人間なのかbotなのかすら怪しい。
このあたりの話題は既にネットを題材としたアニメなどで散々話し尽くされていると思うので、深くは書かないこととする。
※2 なお、この文脈でのSNSはLineやDiscordのようなチャットや通話主体ではなく、Twitterやインスタグラムのような個人アカウントが投稿する形態と考えてほしい。
Facebookは非常に特殊で、リアルの設定がSNSに引き継がれるため、新たなネット上のキャラは作成されない。
Facebookの特異性と日本での微妙な立ち位置については今後別記事に記載予定。(ローコンテクスト的な注釈を入れてみる)
[1] 斎藤 環, “キャラクター精神分析”, 2014